私の心が落ち着く場所
こんにちは。
靴と,服を間違えた,しまった。
誰にも気づかれないくらいのシワを眉間に寄せた私に,優しく声をかけてくれた。
その声に重ねるようにして,おなじ言葉が四方から聞こえてきた。
温かい歓迎の言葉を受けていたら,しまったなあ,なんて気持ちは20メートルくらい歩いた時にはもうすっかり無くなっていて,顔を上げて,左,前,右,後ろをゆっくり眺めていた。
家の外で,こんなに顔をあげているのは,何カ月ぶりだろうか。
いや,家の中でもほとんど無いかもしれない。
足を踏み入れた時の不安や躊躇いは,少しずつ,だけどもすぐに私の中から消えていた。
あなたは,どこから来たの。
その声に私は,一人暮らしをしているところの地名を返した。
住んでいるところは,最寄り駅の名前も,市の名前も知っている人はあまりいない。
だから私は,敢えて都道府県名だけ答えた。
そうかあ,なかなか住みにくい場所じゃない?特に私たちみたいなのだと。
そうですね,ほんとにそう思います。
前を行く彼が,何度も後ろを振り向くから,私は急いで返事をして早歩きした。
そうよね,ふふふふ。
耳に入ってくる音が,肌を触れる空気が,全てがとても,心地よかった。
最初のうち,道がやけにきれいにされていたから,ちょっと残念だななんて思っていたけれど,それはほんの入り口だけのことだった。
何度も振り向く彼の視線に引っ張られて奥へ進むと,期待をはるかに超えた空間が広がっていた。
さすがに足元気を付けなきゃ,と思っていると,
こんな雨が降った翌日の夕方に来るなんて,あなたも物好きね,といわれた。
そんなこといわないでくださいよ。ほんとはお昼すぎくらいに着く予定だったのが,事故で高速が通行止めになって,大変だったんですから。
2,3時間で着くところが,その倍以上かかった不満をこぼした。
渋滞への不満をこぼす自分が,ばからしく思えるような場所。
視線を少し動かす度に,一歩前に進むたびに,そこに生きる彼らに心奪われた。
24時間あっても,足りないと思った。
泊りがけで来ている観光客が,わざと聞こえるように私の服装について話していた。
旅の準備とか,調べてこないのかな,ほんとに。
どうせ,最近の若者は,とか,都会から来る人は,とかいう枕詞がついているんだろうな,と思ったけれど,そこまではっきりとは聞こえなかった。
私もここで暮らしたいなあ,とつぶやくと,あなたにはちょっと難しいよ,といわれた。
そうだけど,いいなあ,と駄々をこねながら,手の届くところに立っていた樹に触れた。
あなたたちにとっても,ここは暮らしやすいの?と聞くと,苦笑いしながら,
いやあ,僕たちにとってはちょっと湿度が高すぎるかな,といった。
あはは,やっぱりそうだよねえ。ちょっとじめじめし過ぎてるよねえ。
でも私たちは,とっても暮らしやすい。
樹の周りでいきいきとしているコケたちが,声をそろえてそういった。
うん,それも知ってる。
久しぶりに,自然に笑えた。
また来よう。
それでは,また。