私の当たり前が変わるとき
蒸し暑い日が続いている。
家の外に出た瞬間,そこらに浮いている水の粒が,私の肌にくっついてくる。
くっついて,集まって,流れ落ちる。
どうにもできない感触に,無力感さえ感じてしまう。
毎年この季節が来ると,必ず思い出す植物がある。
中学校の通学路,急な階段を上ったところに生えていたドクダミ。
じめじめと湿った場所を好むドクダミは,この季節をどう思うのだろう。
わざわざ湿った場所を探さなくても生きられるこの環境。
きっと,いつも以上に,いきいきしているに違いない。
私が空気との触れ合いにストレスを感じているこの瞬間にも,彼らは一年で一番の生きやすさを感じているのだ。
なぜ私はこの季節を気持ちいいと思えないのか。
それは,私とドクダミの当たり前が違うからだ。
私が生きやすいと思う当たり前は,彼らのそれとは違うのだ。
私とドクダミでは,違うことが多すぎる。
もう少し共通点を増やしてみよう。
ニンゲンではどうだろうか。
人が二人以上存在したら,そこには違いが生まれる。
人同士の当たり前の違い。
これはよく言われることだ。
みんな,よく知っていること。
それでは,もっと狭くして,
「私」という,一人の中ではどうだろう。
子どもの頃,食べたことがなかったもの。
子どもの頃,友だちにしたくなかった人。
子どもの頃,好きだったもの。
私は,子どもの頃の自分にこだわる。
新しいものを自分の中に取り入れるのに,時間がかかる。
新しい場所,新しい人だけではない。
感情や,関係性の変化をも。
中学一年生の時,父に対する感情がそれまでの正反対になる出来事があった。
自分の力ではどうすることもできない,関係性の変化から生まれた感情。
正反対,というと少し違うかもしれない。
これまでの感情を押し殺し,抱いたことのなかった感情を抱くことになった。
今でもそんな気持ちが出てくる自分を,許せない自分がいる。
父と顔を合わせるたび,どの自分で向き合えばいいのか分からない。
父と私の,当たり前の関係が分からない。
きっと,あの日を境に当たり前が変わったのだと思う。
それまで当たり前だと思っていた自分の感情。
「私」という一人の人間の中でも,当たり前が変わる時がくる。
ドクダミを思い浮かべながら,子どもの頃の思い出を,無理に今に合わせなくてもいいのかな,と思った。
そして,それと同じように,今の気持ちを思い出に合わせる必要もないのかな,とも思った。
今の私と昔の私。
変わらない,大事に守りたいところと,変わっていくところ。
これまで食べてみたことがなかったものを食べてみること,友だちになろうと思わなかった人と話してみること,そんな些細なことと同じように,自分の新しい感情の当たり前を,受け入れてみたい。
そうしたら,父の顔はどうやって見えるだろうか。
どんな言葉が,私の口から出てくるだろうか。
当たり前が変わることを認めるのには時間と勇気がいるけれど,ほんの少しずつ,やってみようかな。
それでは,また。