言葉の窓から

今日は,どんな景色が見えるだろう。

あの日起こったビッグバンを困らせたい

私が見ている,感じている世界は全て映像なのではないか。

こんな感覚に陥ることが度々ある。

 

今日,玄関で靴をはこうとした時にも,その感覚に襲われた。

 

玄関で,しゃがんで,靴をはく。

至ってシンプルな行動をしている時に,ふとやってくる。

 

 

大学1年生の時,文系のための理系科目,みたいな講義があった。

その時間に私は物理学を履修した。

私は生物が好きで(というか生物以外の理系科目はさっぱりで),履修登録の第一希望を生物学にして提出したのに。

 

「物理学」を担当してくれる教授は,いつも講義室に入ってきてから出ていくまで,一人で何かぶつぶつ,ぶつぶつと言葉を発していた。

たまに思いついたように黒板に書くものも,なんだか分からない記号ばかりが並んでいて,私はいつもキツネにつままれたような気持ちで座っていた。

 

ある日教授が,古典力学の話をした。

 

古典力学では,この世のあらゆる物質の存在,動きは,宇宙でビックバンが起きたあの時に,全て決められたと考えます。だから私が今ここでみなさんに話をしているのも,今チョークを投げてみたのも(なぜかその教授はチョークを投げるのが好きみたいだった),みんな決まっていたことだ,というのです。」

 

私は驚いた。

教授は文系たちの集まりに向かって話してくれたから,いささか古典力学の考え方と一致していない部分があるかもしれないけれど,とにかく彼のその説明が,私の心を動かした。

 

私たちの周りには,運命,なんて使い古された言葉がある。

だけれどそれよりもっと繊細で,決定的な考え方があった。

しかもそれがこれまで敬遠していた理系科目の中にあった。

 

なんてことだ。

 

私は。昔も今も,過去や未来にこだわりすぎて,後悔や不安につぶされそうになることがある。

そういう時に,こう考えると気楽になれる。

見ている世界は映像なのだ,と。

 

映像の世界に生きる私は,過去や未来から自由になれる。

どうせ今が変わらないのなら,今の映像をしっかり見ておいてやろう。

感じておいてやろう。

 

あの日,私が見ている映像を決めた宇宙が困ってしまうくらい,今にこだわってやろう。

 

それでは,また,よろしく。