言葉の窓から

今日は,どんな景色が見えるだろう。

あなたにとって,家族とは

また。

まるでシナリオか何かが用意されていたかのように。

 

「奥さんとはどんな言葉を交わされたんですか。」

「今後も結婚生活を続けていきたいと思っていますか。」

 

センセーショナルに描くメディアにまんまと煽られて、抱きたくもない怒りを覚える自分を、いつも理性で抑えている。

 

今日は、夫婦とか、家族について。

 

夫婦ってなんなんでしょう。

家族って、なんなんでしょう。

 

中学2年生に上がる年のある日、「家族」という単位に強い違和感を覚えた。

それからずっと、感覚では納得しきれない疑問を抱きつづけている。

 

まずは夫婦について。

結婚するという約束を交わした日から、社会的には「夫婦」とみなされることになる。

全く違う環境で生きてきた二人が、ある日を境に一つの世帯を作る。

一緒に住んでいようがいまいが構わないけれど、二人には、目には見えない「括り」がつけられる。

なんとも不思議な単位である。

 

家族について。

先に書いた夫婦も、家族である。

ここまで書いて、家族とは何か分からなくなった。

 

「夫婦の配偶関係や親子・兄弟などの血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団。社会構成の基本単位。」(広辞苑第六版)

 

ふむ。

広辞苑の編纂をされた方は,家族という言葉の定義を考えるのに一二を争うほど頭を悩まされたのではないだろうか。

いや,そうであってほしい。

家というもの,家族というものが多様化してきた今,こう書ききるのには相当な勇気がいる。

こちらもやはり,不思議な単位。

 

そして、今私が気になっているのは、夫婦や家族の在り方について。

正解なんてないことは百も承知だけれど、色々な人の夫婦観、家族観が知りたい。

「笑顔が絶えない家庭を築いていきたいです」なんていう、生活情報誌に載っているような言葉はいらない。

 

年月が経った、もっと人間くさい経験や、考え方が知りたい。

 

自分がどう思うかは分からない。

こういう家族関係が自分の理想,というものが見えてくるかもしれない。

もっと,見えなくなるかもしれない。

ただ,不思議に思う単位について,知りたい。

 

夫婦観や家族観に触れていそうな昭和初期の小説を読んだら、極端に現実主義な男が出てきて戸惑った。

真に受けたら、「契約結婚でなければ結婚は無理だ」とかいう考えになりそうな。

 

これからもう少し時間をかけて、「結婚」とか「夫婦」とか「家族」というものについて触れていきたい。

 

ぜひ、お付き合いいただければ。

 

それでは、また。

私の当たり前が変わるとき

蒸し暑い日が続いている。

家の外に出た瞬間,そこらに浮いている水の粒が,私の肌にくっついてくる。

くっついて,集まって,流れ落ちる。

どうにもできない感触に,無力感さえ感じてしまう。

 

毎年この季節が来ると,必ず思い出す植物がある。

中学校の通学路,急な階段を上ったところに生えていたドクダミ

 

じめじめと湿った場所を好むドクダミは,この季節をどう思うのだろう。

わざわざ湿った場所を探さなくても生きられるこの環境。

きっと,いつも以上に,いきいきしているに違いない。

私が空気との触れ合いにストレスを感じているこの瞬間にも,彼らは一年で一番の生きやすさを感じているのだ。

 

なぜ私はこの季節を気持ちいいと思えないのか。

それは,私とドクダミの当たり前が違うからだ。

私が生きやすいと思う当たり前は,彼らのそれとは違うのだ。

 

私とドクダミでは,違うことが多すぎる。

もう少し共通点を増やしてみよう。

 

ニンゲンではどうだろうか。

人が二人以上存在したら,そこには違いが生まれる。

人同士の当たり前の違い。

これはよく言われることだ。

みんな,よく知っていること。

 

それでは,もっと狭くして,

「私」という,一人の中ではどうだろう。

 

子どもの頃,食べたことがなかったもの。

子どもの頃,友だちにしたくなかった人。

子どもの頃,好きだったもの。

 

私は,子どもの頃の自分にこだわる。

新しいものを自分の中に取り入れるのに,時間がかかる。

新しい場所,新しい人だけではない。

感情や,関係性の変化をも。

 

中学一年生の時,父に対する感情がそれまでの正反対になる出来事があった。

自分の力ではどうすることもできない,関係性の変化から生まれた感情。

正反対,というと少し違うかもしれない。

これまでの感情を押し殺し,抱いたことのなかった感情を抱くことになった。

 

今でもそんな気持ちが出てくる自分を,許せない自分がいる。

父と顔を合わせるたび,どの自分で向き合えばいいのか分からない。

父と私の,当たり前の関係が分からない。

 

きっと,あの日を境に当たり前が変わったのだと思う。

それまで当たり前だと思っていた自分の感情。

「私」という一人の人間の中でも,当たり前が変わる時がくる。

 

ドクダミを思い浮かべながら,子どもの頃の思い出を,無理に今に合わせなくてもいいのかな,と思った。

そして,それと同じように,今の気持ちを思い出に合わせる必要もないのかな,とも思った。

今の私と昔の私。

変わらない,大事に守りたいところと,変わっていくところ。

 

これまで食べてみたことがなかったものを食べてみること,友だちになろうと思わなかった人と話してみること,そんな些細なことと同じように,自分の新しい感情の当たり前を,受け入れてみたい。

そうしたら,父の顔はどうやって見えるだろうか。

どんな言葉が,私の口から出てくるだろうか。

 

当たり前が変わることを認めるのには時間と勇気がいるけれど,ほんの少しずつ,やってみようかな。

 

それでは,また。

 

 

 

セミへの嫉妬。私も全身で鳴きたい。

 「ミーンミンミンミンミンミー…」

 

一昨日,とても嬉しいことがあった。

これまで20数年生きてきて,一度も経験しなかったこと。

この年最初のセミの鳴き声に,気づいたこと。

 

目覚ましが鳴るよりも前に,近くを通る車のエンジン音と一緒に突然,私の耳に飛び込んできた。

セミだ。

ミンミンゼミだ。

 

夏だ。

 

夏の訪れに気づくことだでき,幸せな気持ちでうとうとしていると,数年前に弟がふと口に出した言葉を思い出した。

「セミって,こんなに一生懸命鳴かなかったら,もう少しながく生きられるんじゃないのかな」

 

セミは,羽だけでなくお腹の筋肉も使ってあの鳴き声を出しているらしい。

昔,家族で行った博物館の展示に教えてもらった。

身体全体を震わせ,あんなに大きな声を響かせている。

 

 

先週,どうしても耐えられなくなり耳鼻科に行った。

セミの鳴き声に,ではない。

どうも,耳の調子がずっと悪い。

 

中学生の時から,疲れていたり喉が渇いていたりすると,プールで水が入った時のように,自分の声や呼吸が耳の中で響くことがあった。

自分が声を発している時に他の音が入ってこなくなり,会話を続けるのが難しい。

自分の声のボリュームも分からないから,いつも出している時に感じている,喉の響きだけを頼りに話す。

どうしても話さなければいけない時は,片耳をさりげなく塞いでやり過ごしてきた。

 

それが,これまで一晩か二晩寝たら治っていた一時的なものが,一週間以上続いた。

一日の中で,なったりならなかったりしたものが,朝から晩まで続いた。

呼吸音だけでなく,しまいには自分の鼓動まで聞こえてきて,耳に痛みを感じるようになった。

 

問診票を書き診察室に通されると,第一声で「自分でどんな病気か分かってるんじゃない?」と言われた。

実は,インターネットで色々と調べて行ったから,その質問は的を射ていた。

 

「開放症・・・ですか?」

「うん,そうだと思うよ」

 

なんとあっさり。

今の症状を聞いてもらった後,耳の中を見せてもらった。

最近耳掃除していなかったからまずい,とか思っていたけれど,そんなことは心配なかった。

 

耳管開放症。

簡単にいうと,私たちの身体には鼻と耳をつないでいる管があり,それが働くことによって気圧の調整などをおこなっている。

それが開いたままになってしまっているのが耳管開放症というらしい。

主な症状は,耳が詰まった感じがする,自分の声が響いて聞こえる,などである。

私がこれまで悩んできた症状そのままだった。

 

鼻をつまんで息を止めたり吐いたりしながら耳の中を見ると,耳管にある膜のようなものが動く様子を見ることができた。

これを肉眼で見ることができるのは,かなり重症らしい。

またしてもあっさり言われた。

 

まずは様子見ということで漢方を処方してもらい,家に帰って調べてみた。

ある記事で,管楽器との関係について書かれていた。

高校生で部活をきっかけに始めたクラリネット

息を強く出す管楽器との関係も強いらしい。

 

お盆休みに実家に帰った時に,今住んでいる所にクラリネットを持ってきて久しぶりに吹きたいと考えていた私にとって,信じたくない内容だった。

確かに長い時間練習していた時は,耳の調子が悪かった気がする。

そういうことだったのか。

そうなのか。

 

それでも,クラリネットが吹きたい。

家の近くの河原でサックスを吹いている人がいて,羨ましくて仕方がないのだ。

時間さえ気をつければいつでもピアノを弾くことができた実家と違い,一人暮らしのアパートで,自分の感情をぶつけられるところは少ない。

これまで音楽という手段を使って表現してきた自分の感情を,どうしたらいいか分からない。

 

セミが,あれだけ一生懸命鳴いているのを聞くと,私も自分の身体から音を出したくなる。

セミが身を削って鳴いているのなら(本当はそうでもないらしいけれど),私も身を削ってでも鳴きたい。

 

早く,休みにならないかな。

 

それでは,また。

あなたの時間とわたしの時間

昼休みに,連休明けの先輩を交えてご飯を食べた。

休みの間に韓国へ旅行をしてきたらしい。

お土産話を聴きながら、なんとももどかしいあの感覚を思い出した。

 

初めて学校に遅刻した時のこと。

完全なる寝坊である。

起きて目にした時間を理解するのに,いつもより1秒多くかかった。

あと15分で授業が始まる。

家から学校まで,自転車をとばせば10分で行ける。

間に合うか。

 

いや、間に合うわけがない。

 

じゃあどうする。

 

これは遅刻だ。

 

どれだけ急いで準備して行っても、遅刻だ。

 

まだ,授業は始まってないのに―――。

 

この感覚。

その後急いで追いつこうとするか,あきらめの気持ちにすっぽり包み込まれてしまうかは,人やその時の状況にも依るだろう。

 

ただ,あの瞬間の,あのもどかしさは何たるものか。

 

先輩は、飛行機に乗り遅れた。

空港まで2時間近くの所に住んでいて,目覚めた時間が離陸1時間前。

「どこでもドアが欲しい!」

どこでもドアは,あの瞬間に身を置いた人がその瞬間に思いついたに違いない。

 

私とは別のところで動いている「時間軸」がある。

初めて学校に遅刻した時,強く意識した。

その時間軸に,私はいない。

 

私たちはいつも当たり前のように、人と会う。

物を見る。

音を聴く。

動きや変化があるほど「時間軸」は合わせにくい。

世の中は,「時間軸」の絡み合いでできている。

 

旅行会社の助けを得て、なんとか当日中に着くことが出来た先輩にもらったお菓子は、その見た目から抱いた躊躇いなど必要ないくらい、美味しかった。

 

それでは,また。

流れに身をまかせて

ねえ,お昼ごはん何食べる?

迷ったらいけないから,と寝る前に決めた時間に家を出た私と妹は,電車に揺られながら今日行くところを考えていた。映画が終わる時間何時だっけ,12時過ぎくらい?うん,確か,と言いながら,昨日予約したチケットの日時が間違っていないことを確認した。

そうだなあ,雑誌とかで見るあのお洒落なハンバーガーが食べたい,と言った妹に,私はさすが女子大生,と返したもののその後の言葉が思いつかなかった。

 

まさかこんな形であのお洒落なハンバーガーを食べることになるとは思ってもいなかった。まだ,生クリームがのったパンケーキも,蜂蜜がたっぷりかけられているフレンチトーストも食べていないのに。妹は,私と違って流行に上手く乗っていく。今日の朝も服を着替えながら,ちょっとカジュアルすぎるかな,とか言いながら自分の背格好にあったお洒落な白いTシャツとくるぶし丈のジーンズをはいて鏡の前でポーズを取っていた。

 

私は,妹と違ってその時の流行に上手く乗れない。テレビやSNSで大きく取り上げられているものを知らないわけではない。おいしそうだなあ,お洒落だなあ,あんな服が着られたらなあと思う。自分の予算が許す範囲で,素敵な服を買おうともしている。それなのに。大学時代から付き合っている彼氏には,そのダサさがみどりの良さだよね,とか言われるし,ゴールデンウィークに実家に帰った時は母に,なんでそんな服買っちゃったの,と言われた。おかしい。妹よりお金をかけていないなんてことはないし,最高の組み合わせだと思ってレジまで持って行ったのに。

 

2名でお待ちの北山さん,お待たせしました。30分くらいお店の外で待っていて,ようやく席に案内してもらえた。メニューを見ると,普通のハンバーガーの下に様々なトッピングを加えたハンバーガーが並んでいる。妹が,私はチーズバーガー,飲み物は,お水でいいや,と言う。私もそうしよ,とつぶやいて店員さんに目配せをする。

 

運ばれてきたチーズバーガーは,私がこれまで食べたことのあるそれと全く違った。中の具材がよく見えるように一番上のパンはずらして置いてあるし,何よりチーズが黄金色に光っている。これは確かに写真に残したくなる。ジューシーなお肉に絡まったチーズはハンバーガー全体の味をまろやかにし,同じお皿に添えられていたポテトは,暑くて汗を流しながら待っていた身体に絶妙な塩加減だった。

 

お腹いっぱい,次どこ行く?満足そうな妹の横顔を見ながら,たまにはこういうことも悪くないな,と思った。自分一人では乗れない流れに乗せてもらう。手を引っ張ってもらう。そうしたら自分の世界が広がる。自分でできないならそれでいいか,と一人納得しながら,行ってみたかった大きな本屋さんに向かって歩いて行った。

大学生の本分

ああもう暑い,久しぶりに会って第一声がこれだった。そうやね,今日確かに暑いね。この前買ったばかりだという大きな黒いリュックを背負ってやって来た妹に,私は当たり障りのないことばを返した。何がそんなに入ってるの,と私が訊くと,そんなに入ってないよ,あ,でも,レポート書かなきゃいけなくて,と言う。え,今日これから書くの,とつぶやき,久しぶりにゆっくり話ができると思っていた私は少し残念な気持ちになった。

 

でも,もう書くことは作ってきたから,あとはレポート用紙に書き写すだけ。そう言って筆記用具を取り出して,スマホのメモアプリを起動した妹に私は訊いた。え,レポート手書きなの?確かに私も手書きで提出したことがあった気がするけど,面倒くさくない?と言うと,ほんとにそう!なんか,コピペを防ぐためだって,と教えてくれた。コピペねぇ,そんなの手書きでもできちゃうのにねえと私が言うと,妹はほんと,ほんと,と言いながら,すでに三行目まで写していた。

 

私はテレビを見ながら,妹の様子を横目で見ていた。書き始めてから,はや1時間。一向に終わりそうな気配はない。あと30分経ったらお風呂入れるよ,と言うと,う~ん,といつもの力のない声が返ってきた。言葉の意味は読み取れたけれど,それについて考える暇なく返事をした時の声。強く言い返せるわけもなく,テレビをつけたまま本を読んだり,スマホをいじったりしていると,ちょっと,テレビあると集中できん,と言われた。確かにそうか,と言いながら私はテレビを消した。

 

約束の時間を20分過ぎて,2人でお風呂に入った。何度もお湯を沸かすのはもったいない,という母の教えを2人して律儀に守る。お互い,実家で守ったことなど思い出せるほどしかないけれど。

 

私が身体を洗っていると,妹が最近始めたアルバイトについてぽつりぽつりと話はじめた。私が働いてるところは21時までなんやけどね,近くの店舗に行って欲しいって言われた友達がいて,その子は23時まで働いてるんだって,独立店舗だから,と言う。しかも,22時から23時の間は給料上がるんだって,と言うから,私は,ああ,深夜手当ってやつやね,と返した。私は,妹が給料のことを気にしていることに前から薄々気づいていた。アルバイトも,渋る妹に母が何度も言い聞かせて始めたのだ。

 

後期からまた忙しくなるからさ,今のうちにシフト入れなきゃなあ,と言う。聞きながら,アルバイトを始めて,勉強の時間がとれなくなって,ただでさえ規則正しくない大学生活がだんだんと乱れていった自分のことを思い出していた。今日,朝の3時までレポート書いてたんだよねえ,だからもう眠い,と,さっきスマホの画面を見ながらレポートを書き始めた時に言っていた妹の言葉を思い出した。

 

無理してアルバイトするくらいなら,お姉ちゃんがちょっとはお金あげるから。喉まで出かかった,その時一番言いたかった言葉も,社会人一年目の私には言えなかった。大学生は勉強してればいいんだから。それが本分,と自分にも言い聞かせるように言って,そうやねえ,と半分腑に落ちていないような妹の言葉を聞きながら,肩からお湯を流した。

あの日起こったビッグバンを困らせたい

私が見ている,感じている世界は全て映像なのではないか。

こんな感覚に陥ることが度々ある。

 

今日,玄関で靴をはこうとした時にも,その感覚に襲われた。

 

玄関で,しゃがんで,靴をはく。

至ってシンプルな行動をしている時に,ふとやってくる。

 

 

大学1年生の時,文系のための理系科目,みたいな講義があった。

その時間に私は物理学を履修した。

私は生物が好きで(というか生物以外の理系科目はさっぱりで),履修登録の第一希望を生物学にして提出したのに。

 

「物理学」を担当してくれる教授は,いつも講義室に入ってきてから出ていくまで,一人で何かぶつぶつ,ぶつぶつと言葉を発していた。

たまに思いついたように黒板に書くものも,なんだか分からない記号ばかりが並んでいて,私はいつもキツネにつままれたような気持ちで座っていた。

 

ある日教授が,古典力学の話をした。

 

古典力学では,この世のあらゆる物質の存在,動きは,宇宙でビックバンが起きたあの時に,全て決められたと考えます。だから私が今ここでみなさんに話をしているのも,今チョークを投げてみたのも(なぜかその教授はチョークを投げるのが好きみたいだった),みんな決まっていたことだ,というのです。」

 

私は驚いた。

教授は文系たちの集まりに向かって話してくれたから,いささか古典力学の考え方と一致していない部分があるかもしれないけれど,とにかく彼のその説明が,私の心を動かした。

 

私たちの周りには,運命,なんて使い古された言葉がある。

だけれどそれよりもっと繊細で,決定的な考え方があった。

しかもそれがこれまで敬遠していた理系科目の中にあった。

 

なんてことだ。

 

私は。昔も今も,過去や未来にこだわりすぎて,後悔や不安につぶされそうになることがある。

そういう時に,こう考えると気楽になれる。

見ている世界は映像なのだ,と。

 

映像の世界に生きる私は,過去や未来から自由になれる。

どうせ今が変わらないのなら,今の映像をしっかり見ておいてやろう。

感じておいてやろう。

 

あの日,私が見ている映像を決めた宇宙が困ってしまうくらい,今にこだわってやろう。

 

それでは,また,よろしく。