夢のなかの私の顔
最近,よく,夢をみる。
毎日平均2本立て。
朝起きて,食パンを焼いて,コーヒー牛乳を飲むくらいまではなんとなく覚えているから,結構しっかりみているようだ。
私の夢は,「人」が出てくることが多い。
久しく会っていない小中学校の同級生から,その日お会いした方までさまざま。
楽しく話している夢をみることもあれば,目が覚めた時にちょっと疲れている時もある。
いずれにしろ最近の私は,現実の世界だけでなく寝ている時もどこか違うところに生きている気がする。
今日の朝,コーヒー牛乳を飲みながらふと,夢の中の私はどんな表情をしているのか気になった。
現実の世界の私は,久しぶりに会った人,初めてお会いした人とお話しするときに結構エネルギーを使っている。
その人の最近を知っていない分,言葉を必死に選んで,時には表情も作って目の前に居続ける。
別れた後は,気に障ることを言わなかったか,話題に応じた表情ができていたか,いちいち考えてしまう。
それが夢の中ではどうだろう。
目の前の相手が何を思っているだろうか,なんてことを考えた覚えはない。
ここは笑顔を見せないと,なんて思ったこともない。
夢の中の私は,いったいどんな顔をしているの?
現実の世界ではできないような,ストレートな行動ができる夢の中の私をちょっぴり羨ましく思うことがある。
今日また夢をみることができたら,鏡を探してみよう。
鏡に映った私の顔に,その時の気持ちが素直に表れていたらいいな。
おやすみなさい。
それでは,また,よろしく。
「えらい」という感情をどうしたらいいのか
今週末,私の家に妹が遊びに来る。
その打ち合わせの電話をしたら,彼女の大学生活の話になった。
妹は今大学2年生で,私と同じように実家を離れて一人暮らしをしている。
その妹が,大学の友だちと心の距離を縮められないというのだ。
彼女は「方言で話せないから」だと言った。
私も,それに強く共感できた。
私たちの地元にはたくさんの方言がある。
中学生の時,新しく赴任してきた先生が「みんなが何を話しているのか分からない時がある」と話した時のあの少し困惑した顔は忘れられない。
先生が知らない言葉を話していることに,ちょっとした誇らしさを抱いたのは私だけではないだろう。
私たちは,テレビで取り上げられるまではいかない,なんとも中途半端な方言を話す。
けれどもそんな,中途半端なんて言葉では片付けられない方言が一つある。
それが「えらい」という感情。
この「えらい」はとても厄介な言葉である。
何が厄介なのかというと,まず一つ目,標準語に訳すことができないのである。
一応,便宜上,どうしても標準語にしなければならないのであれば「辛い,しんどい,だるい」あたりに近い意味をもつ(「しんどい,だるい」も方言だという説もある)。
だがしかし「えらい」は「辛い」わけでも,「しんどい」わけでも「だるい」わけでもないのだ。
そして二つ目の厄介な点は,この言葉がいわゆる負の感情のほとんど(9割といっても過言ではない)を表すものだということにある。
方言が通じない人にこの気持ちを伝えたいと思ったとき,「えらい」では伝わらないから私たちは他の言葉で表そうとする。
しかしながらどうしても適切な表現がない。
結局どうするかというと,その感情を自分の中に溜めてしまうのである。
この記事を書いていて,私たちが「えらい」という言葉をいかに頻繁に遣ってきたのかに気付かされた。
そしてそれと同時に,「えらい」という言葉を遣えないのであれば,自分たちの感情の半分くらいを表すことができないということに気付いた。
今日,ようやく腑に落ちたことがある。
私も地元を離れて大学に通い始めてから,「みどりはヘルプ要請が苦手だ」と周囲の人に言われるようになった。
高校までは全くといっていいほど言われなかった言葉である。
大学時代にそう言われて,確かに大学の友人や先輩後輩にはヘルプ要請をほとんどしていなかったし,昔からなんでも自分でやりたがりだったこともあったから,私はヘルプ要請が苦手なのかもしれないと思っていた。
そうか,方言が通じないことも一つの理由かもしれない。
今日そう気づいて私は,いくらか心が軽くなった。
私はなかなか周りの人にヘルプ要請ができない。
それは,「辛い」とか「しんどい」とか「だるい」という感情が,どういう感情なのか本質的に分かっていないからだと思う。
この程度で,「辛い」と言っていいものなのか。
いや,「辛く」はない,と自己完結する。
ヘルプ要請が苦手,なのではなくて,したいのにできていなかったんだなあと自分の気持ちに気づいてあげられることができて,良かった。
今週末はお互い「えらいえらい」言い合おう,と妹に言ってから電話を切った。
それにしてもこんな大事な感情が方言って困る。
だからこそ,なのかもしれないけれど。
それでは,また,よろしく。
私たちの家のお話
今日,夕食を買いに行ったついでに本屋で立ち読みをした。
とある雑誌の「家」の問題についての記事に目が留まった。
“住宅政策”がなんとか。
実は“政策”の類については結構興味があるのだけれど,今日はその前についている言葉が気になった。
「家」ってなんだろう。
私は最近2年ぶりに一人暮らしを始めた。
とある場所にある,とあるアパートだ。
十くらいの部屋があるうちの一部屋で,私は今日もひっそりと暮らしている。
「家」は,究極的にいえば外界とプライベートな空間を仕切るためにあるものだろう。
争いが頻繁に起きていた時代は,「家」は敵から身を守り,雨風を凌ぐ「守り」の役割が強かったのだと思う。
今はどうだろう。
「守り」の機能は確実に存在する。
家の外と,家の中がたった一枚の壁でしか区切られていないことに初めて意識を向けた子どもの頃,身震いしたことを今も覚えている。
壁に課せられている役割の重さに驚愕した。
一方で,「家」は「守り」のためだけにあるものではない。
家族やパートナーと会話をする。
友人を招く。
机に向かって勉強をする。
お風呂に入って疲れを癒す。
睡眠を取って,翌日,また活動する。
挙げ始めたらきりがない,「家」がもつ役割。
人々が「家」に与えている役割の多様性は計り知れない。
私にとってこの家は,安心できる場所。
外ではできないおバカなことも,行儀の悪いことも,やっていいよと許されている,そんな最高な場所。
家に着いたら久しぶりに掃除でもするかな。
こんなことを考えていたら,自転車に乗せていた卵を,道路の段差でうっかり落として,半分がぐしゃぐしゃになってしまった。
夕食は急きょオムライスになったとさ。
それでは,また,よろしく。
初めての投稿。
初めて,ブログを開設。
右も左も分からないことのスタート。
確か中学生のころ,初めてブログの流行りが来たけれど,その子たちのように携帯電話を持っていなかったから「そんなものがあるんや,へー」と思っていただけだった。
その時の私に今を伝えたらなんて言うだろうか。
「え,うそ,考えられない。え,ほんとに?」
絶対信じてもらえない。
最近初めてお会いした方から,ブログの魅力を教えてもらった。
“人が見ている世界で,自分の文章を書くこと。”
いつか,自分の言葉を社会に発信出来たらいいな。
そんな『いつか』をこんな形で迎えるとは想像すらしていなかった。
初めて覗いてみたブログの世界は,私が考えていたよりもずっと広大で,中にはたくさんの人がいた。
まずは書いてみよう。
そして,伝えてみよう。
これから,どうぞ,よろしく。